以上にて、山陰地区の現状について適格なる分析を行ったが、次に行うべきは山陰が将来的にどのような方向を志向するべきかという問題である。
ここは詳細なデータに基づくシュミレーションを通じて、山陰のあるべき姿を検討していきたい。
(a)鳥取島根併合事件
201X年8月、鳥取県議会(定数38)は選挙を行い急進派の鳥取砂丘党(神崎川総裁)が32議席を獲得した。同時に鳥取砂丘党の擁立する桂候補が鳥取県知事に就任した。
選挙に開かれた県議会で、鳥取砂丘党は島根強制併合条例を提案し、賛成多数で可決された。
同条例の可決に対し、島根県議会ならびに島根県庁は遺憾の意を示し、対話路線を掲げ、出雲市会談(9月)にて両県知事が会談し、相互理解を深めようとしたが、両者の議論は平行線を辿るに至り、もはや対話は不要とする鳥取砂丘党執行部の強い意向に従い、11月に鳥取県警機動隊を中心とする勢力が松江市に侵攻を開始した。
不意をつかれた島根県庁は、松江市を放棄し、臨時県庁を益田市に設けたが、年末までに鳥取県が島根県東部を実効支配する異常事態に発展した。
(b)兵庫独立戦線
鳥取県の島根東部実効支配に刺激された豊岡(兵庫県)の過激派団体兵庫独立戦線(夙川議長)は豊岡市を首都とする兵庫県立帝国の成立を宣言、夙川議長は初代皇帝を名乗り、阪神・姫路地区を基盤とする兵庫県庁と対決姿勢を打ち出した。
兵庫県庁は中央政府と協議の上、同帝国の成立の3週間後に県立帝国実行支配地域を兵庫県、旧兵庫県南部を新たに神戸県と分離すると発表した。こうして神戸県の成立と共に、終戦以後発の独立国として兵庫県立帝国が実行成立した事が、事実上日本政府にも認められる形となった。
(c)砂丘条約調印
鳥取県は201Y年元旦に正式に独立を宣言し、大山陰鳥取砂丘共和国(Great Republic of San-in and Tottori-Sakyu)が成立した。同国は砂地に梨の国旗を掲げ、大山陰帝国の実現を目標とする境港宣言を採択した。鳥取砂丘党の神崎川総裁は、同国の初代大統領に就任し、さらに兵庫県立帝国と国交を結び、相互不可侵条約や共同戦線展開を主軸とする砂丘条約を締結した。
砂丘条約により、兵庫・鳥取両県に強大な軍事自治体が出現した。神戸県庁(旧兵庫県庁)は、岡山・京都・大阪・広島の各府県と総合防衛協定を締結し、いわゆる陰陽対立体制が構築される事となった。
(d)ふくテロ事件
201Y年3月下関駅に隣接する海峡ゆめタワー(全高153m)、赤間神社内のふくの像、新下関駅みどりの窓口が同時爆破されるという事件が発生した。同時刻に山口県庁、下関市役所に山口北部の早期独立を求める不審な電話がかけられてきた。事態を重く見た警察庁は事態の全容解明に努め、5月に山口県の山陰主義過激派団体の「萩の月」幹部の中津容疑者(24)を潜伏先の広島県新見市内で逮捕した。中津容疑者は警察の調べに対し、「今まで下関に見下されてきた山口市民の気持ちを代弁したかった」などと供述し、山陰コンプレックスがこの悲惨な事件の背後にあることが伺える。
(e)島根県庁陥落
201Y年7月、大山陰鳥取砂丘共和国は益田市に設けれれた臨時島根県庁に対し、最終降伏勧告を発令した。しかし島根県庁はこれを断固拒否。鳥取警視庁(旧鳥取県警察本部)は3日間の猶予期間の後、島根県庁を完全に陥落されるべく島根消滅作戦を発動した。鳥取警視庁機動隊を中心とする兵力5000の師団が夜明けの益田市に侵攻を開始。物量に劣る島根県庁は必死に防戦するも元来工業化で遅れをとったせいか、午後までには勝敗の大勢は決した。
以後、島根県庁の残党は山口県萩市に亡命島根県庁を設け、鳥取粉塵作戦などの非合法テロ路線をとり抵抗を継続する。