先日、学友らと共に花見に出かけたときの話。
ある知人が曰く、最近TCXの更新が頻繁なのは、東村氏が告白して、ふられたかららしいとの噂があるらしい。
話を聞いたときは、思わず咄嗟に、それは事実ではないと否定したが、実のところは、その噂の通りである。
なぜ否定してしまったのかというと、それは私と告白した相手しか知らないであろうはずであることが公然と流布されていることに驚いたからこそ他ならない。
どこに他人様の目があるか分かったもんじゃない。
まぁそれはどうでもいいことだ。
こうして噂が流れている以上は幾ら否定したところで無駄であろう。
然るに、ここは私自身の手で、一体何があったのかを明らかにしていきたい。
夕方の環状線の車内は、それなりに混んでいる。
扉の横の僅かなすペースに無理矢理座ると、程なく電車は出発した。
愛用のビジネスバックを膝に乗せ、文庫本の表紙を開いたのは良いが、生憎と睡魔が押し寄せ、うつらうつらと寝ていたらしい。
規則的な揺れが止まり、目を開くとそこは私が降りる予定の駅だった。
慌てて立ち上がり、電車を降りると、相も変わらずポツポツと雨が降り続いていた。
駅から、目的のビルまでは少し離れている。
雨の中、傘も無しに歩く気もなかったので近くのコンビニで水色の傘を一本買い求めた。
ナイロンに水音が跳ねる音を聞きながら、ゆっくりと街の中へと歩いていく。
赤信号に捕まり、車道には長い車の列が出来た。
まだ降り出してから間もないので、水たまりはさほど大きくない。
だが――――帰る頃にはきっと大きな水溜まりになるのだろう。
約束の時間よりジャスト5分前。
駅から少し歩いたところにある紀伊國屋書店の前に到着した。
真新しい傘を折り畳み、傘袋に包んで書店に入ると、思いがげず、待ち人も既に着いていた。
「……おつかれさま」
声をかけると、相手は読んでいた雑誌から顔を上げ、私を認めると微かに微笑み
「おつかれさま」
と返してきた。
水色の傘の隣に、赤ベースのチェックの傘が並んだ。
幾ばくも歩かないうちに、高島屋デパートの前に到着する。
この界隈で最も大きな建物でもある高島屋デパートの最上階のレストラン街へ。
その前にまだ時間に余裕があるので趣味のティーカップを覗かせて貰った。
某社の250周年記念のティーカップ。
1855年に開催されたパリ万博にちなんで、デザインされた産業宮殿の愛称で呼ばれるその品は、残念ながら学生がおいそれと手を出せる値段ではなかった。
しばらく眺めていたが不意に我に帰った。
今日は1人で来ているんじゃない。
同行者につまらない時間を作ってしまい申し訳ないとわびると、いや、私もこういうのは好きと言う。
おそらくは、ある程度の社交辞令的なニュアンスを含んだ物であるのだろうが、自分と同じ物に興味を持っている様子があるのが少しだけ嬉しかった。
レストラン街を覗いてみると、お気に入りの洋食屋が入っていることに気がついた。
いつも横浜や銀座に出たときに、訪れている店がこの高島屋にもあるとは意外だった。
入り口のメニュー表を覗くと値段も他の店と変わらない。
この点、もう一つのお気に入りの店の資生堂パーラーだと支店ごとに値段が違うので、なかなか新しいところに入りにくいが、まぁこちらのレストランなら大丈夫だろう。
禁煙席をオーダーすると「只今混み合っております、しばらくお待ち頂くことになるかと思いますが、構いませんか?」という。
同行者は別に喫煙席でも構わないというので、すぐに案内して貰った。
窓際の席からは、眼下に広がる街の夜景が見えた。
メニューを開くまでもなく、ここで食べるものは決まっている。
店の名を冠したハンブルクステーキ。
アルミホイルに包まれたまま出てくるこの料理は、この店が創業した当時からこの形らしい。
流石は老舗。
長年の歴史は今も色あせることなく、美味しい料理となって輝いている。
「何かおすすめはないの?」と尋ねられ、折角だから、同じのにしたらと、ハンブルクステーキを勧めてみると、じゃあ私もそれにするわと言った。
ウェイターを呼び、ハンブルクステーキを2人分、それから食後のデザートをオーダーする。
ウェイターが下がると、同席者はお手洗いにと、席を立った。
不意に1人になると、案外困る物である。
何をする訳で無くぼんやりと席に座りながら、時間の流れに身を任せるような感覚。
―――憧れの人と食事に来ているのか……
声に出さず、口の中で呟いてみるが、当人を目の前にしてなおも実感が湧かない。
彼女と食事を共にする機会に恵まれたのは、ほんの偶然の結果だ。
年末年始の大旅行から、休む間もなく試験期間に突入した。
生憎と旅行中にやった授業の内容のノートがない。そこで困った私は学友に助けを求めた。
その学友は喜んで自身のノートを貸してくれた。
私は数日かけてノートを写し、試験の前日に学友にノートを返すことにした。
そう、あの試験の前日もまた雨の日だった。
朝方から降り続く雨は夕方には季節はずれの大雨となった。
寒い2月の雨。
その雨の中、呆然と立ちすくむ彼女の姿があった。
時刻は午後の10時。
夜の学内は静まりかえり、その場にいたのは私と彼女だけだった。
だからだろうか?
声をかけたのは―――
いつもの自分なら、軽く一瞥をしてただ通り過ぎるだけの筈だった。
あのとき、声をかけるという気まぐれを起こした理由は今となっては自分ですら分からない。
ただ、声をかけたのだ。
「傘も差さないで一体、何をやってるんだい?」と。
彼女とはそんなに親しい訳ではない。
ずっと昔に何回か簡単に言葉を交わしたくらいの関係。
幾つかの被ってる授業で、そう言えばいつも見る顔だなと思うくらいの1人。
そして―――密かに憧れていた人でもあった。
「……あの……明日の試験のノート、落としちゃって……」
確かに彼女の足下には泥にまみれて汚れたバックと、水を吸ったルーズリーフが落ちていた。
元は綺麗なペン字であったであろうルーズリーフも、インクが滲んでよく分からないシミになっている。
「そんなところにいたら風邪を引くよ。とりあえずあの下まで行ったら?」
近くの屋根のある掲示板へと促すと、おぼつかない足取りで彼女は掲示板の下へと動く。
私は小さくため息をつきながら、バックとルーズリーフを水溜まりの中から拾い上げた。
拾い上げたバックを、持っていたポケットティッシュを幾枚も使い、とりあえず外側の水気だけは拭き取った。
ルーズリーフの方は……これはもうどうしようもない。
バックを彼女に渡そうと差し出すと、彼女は微かに涙を零しながら受け取った。
「折角勉強したのに……無駄になっちゃったな……」
正直、ノートがダメになったくらいで泣くほどのことかとも思ったのは事実である。
だがそこには彼女なりの事情があった。
明日の試験は彼女にとって、一つの目標であったらしい。
彼女の実家は、大学卒業後に実家に戻り、家業の小売店を継ぐようにと言ってきた。
私の通う学科は、政治系と経済系の両方の学問が学べる学科であったことが彼女の不幸でもあり、幸運でもあった。
本来、経済で有名な大阪市立大学を志望していた彼女は、受験の直前で、志望校を私の学校へと変えた。
本当は政治学を学びたかったという彼女は、親の意向に従って経済系の学科としても受験雑誌に紹介されるここの学科に入り、そこで政治学を学ぼうとしていたらしい。
だが、いよいよ来年、学年が進むと専攻が決まる。
進路選択の一つを目前に控え、親に政治系のコースへ進むと告げたところ、案の定ケンカとなった。
しかし最後は、明日やる試験を初めとする幾つかの試験で全て"優"を取れば、家業に捕らわれず、自由にしても良いと言われたらしい。
何ともありがちな話であるが、当人にとっては大きな問題であった。
明日の試験は今期の試験の中でも一番の難関と目されている試験だった。
それ故に私自身も柄になく試験勉強というものをやっていた訳ではあるが……
明日の試験は朝一番で行われる。
持ち込みは自筆のノートのみ可となっていた。
持ち込み無しに試験にパスすることは難しいと言われている科目である。
ノートが無いのなら、"優"どころの話ではないだろう。
とはいってもこの時間だ。
彼女が話を終えた頃、長針は既にくるりと回っている時間だった。
今さら誰かのノートを書き写したとしても到底間に合うまい。
いや、そもそも今夜は皆が必死にノートと教科書を照らし合わせ、誰かに貸す余裕なんて無いのだろう。
……仕方ないか。
私は自分の鞄を開け、中から一冊のノートを取り出した。
「このノート、使う?」
彼女は顔を上げ、驚いた表情で私を見た。
「でも……それじゃあ東村君が明日の試験で使うノートが無くなるでしょ……受け取れないよ」
「いやいや、大丈夫。実はそのノートは下書きで清書した奴がここにあるんだ」
と、言ってもう一冊のノートを取り出した。
「ぇ……でも……」
だが彼女は躊躇ってノートを受け取ろうとしない。
「いいから。とりあえず持って行って」
私は自分のノートをむりやり彼女の、まだ微かに汚れの残る鞄に押し込むように入れると、
「じゃあ、ちょっと友達との約束の時間にだいぶ遅れているから」
とだけ言い残して、雨の中に彼女1人を置き去りにして、自転車へと向かった。
今さら、学友の家に行く気などさらさら無い。
家に帰ると携帯電話を開いた。
数コールで学友が出る。
「ああ、もしもし……私だ。……そう、東村です。……はい……」
「大変申し訳ないが、実はお前から借りたノートあるじゃん、そうそう……明日の……」
「うん……あれだけどな……無くした……」
学友はお前、それマジで言ってんのと暫し絶句した。
結局、10分間の謝罪と交渉の末、夕食3食奢りで話は片づいた。
「お待たせ」、と彼女が戻ってきた。
いつの間にか、この会食に至るまでの回想に浸っていた私の意識を呼び戻す声。
「ずいぶんと変な顔」
よほど私は間の抜けた表情をしていたのだろうか?
そんな様子がツボに入ったのかクスクスと彼女は笑った。
彼女の笑顔を見て、少しだけ残っていた緊張が解けていった。
彼女が戻ってくるのを待っていたのだろう。
料理はすぐに運ばれてきた。
アルミホイルに包まれたハンバーグ。
いや、この店ではハンバーグではなく、これをハンブルクステーキとお呼び下さいと言っているのでハンブルクステーキと呼ばさせて貰おうか。
慣れない手つきを隠しつつ、ナイフとフォークでアルミホイルを突き破ると、まだ肉汁が飛び跳ねているかのようアツアツのハンブルクステーキが姿を現した。
「東村君の貸してくれたノートのおかげでバッチリ優が取れました」
彼女は嬉しそうに報告する。
「なんとか、親も納得させれたし……自分のやりたい勉強がようやく出来る気がするの」
彼女の言葉の端々から、何かしらの開放感が感じられた。
私は完全に聞き役に廻っていた。
へぇ、とか、そうなんだとか相づちを打ちながら、彼女の将来の目標から他愛のない日常の出来事まで、話題は尽きない。
「―――――お話の最中申し訳ありませんが……」
不意に話の最中にウェイターが、割り込んできた。
もうラストオーダーの時間らしい。
随分と長居をしたもんだ。
店に入ってから3時間はたっているだろう。
そろそろ頃合いだ。
席を立ちレジへ。
彼女はノートを借りた御礼だから自分が払うと言ったが、とりあえず電子マネーを使いたいからと、一端私が会計を済ませた。
もちろん彼女に金を出させる気は初めから無い。
高島屋も既に閉店し、エレベーターは地上階へと直行する。
眼下に広がる夜景が段々と大きく、そして狭くなり、しまいにいつもの目線の高さまで戻った。
玄関を出ようとすると、彼女はちょっと待ってと、玄関脇のコインロッカーへと向かう。
……預けた荷物なんてあったっけと訝しむ間もなく、彼女はポケットから鍵を取り出すと、コインロッカーの中からバラの柄が印象的な高島屋の紙袋を取り出した。
そしてそれを私に預ける。
「―――これは?」
見た目の割にそんなに重たい物ではない。一体何を買ったのやら―――
「まぁ……お世話になった御礼。大した物じゃないけど……」
「そんな気を遣わなくてもいいのに……」
だが、本当はかなり嬉しかった。
「開けてみても……いい?」
「もちろん」
ドア横のベンチに腰掛け、丁寧に包み紙をはがすと、中は水色の箱だった。
真ん中に紺色の"W"の文字の中に壺をかたどったマークが付いている。
「これって……もしかして……」
そっと箱の蓋を開けると、中にワイン色のティーカップが入っていた。
「……アニュアルコレクションの……産業宮殿……」
そっと手に取ると、普段使っているティーカップには望むことすら出来ない軽さと鮮やかなデザインが目を惹く。
ティーカップをひっくり返すと、そこにはまぎれもなく、fine born chinaとWEDGWOODの文字があった。
「こんなに高価な物もらえ……」
「いいから、とりあえず持って行って」
私の言葉を遮るようにどこかで聞いた台詞。
彼女はベンチから立ち上がると玄関の扉を押し開けた。
「あっ、ちょっと…待って……これ片づけるから……」
慌ててティーカップを箱に戻し、包装紙を折りたたみ、高島屋の紙袋にしまい込んだ。
彼女はその間ずっと扉の外で待っていてくれた。
白いタイルが敷き詰められたサザンテラス。
目の前に立つ2つのビルは殆ど灯りを落としている。
ホテルが入っている左の白いビルの上の方の階から、白熱灯とおぼしき色付いた灯りが幾つか漏れていた。
振り返ると大きな時計塔のライトアップされた時計が見える。
そう言えば、雨はもう止んでいるようだ。
雨上がり独特の、水気を拭くんだ空気を夜の風が運んでいく。
サザンテラスの上のスターバックスも常夜灯のみを残し、眠りについている。
―――まるで街全体が眠りについているかのように、やけに静かだった。
もう少し歩いて横断歩道を渡れば、すぐに電車の乗り場だ。
今しかないか……
私は不意に足を止めた。
彼女は、半歩進んで、こちらを振り返る。
私は意を決した。
「………」
だが、言葉にならない。
「……どうしたの?」
彼女が問いかける。
「……もし……もしよかったら何だけど、付き合って貰えませんか?」
時間が止まったかのような感覚。
彼女はまさかこのようなことを言われると思っていなかったのか、少し驚いた表情で私を見つめた。
「えっと……いきなり言われても……」
やはり困惑しているようだ。
言わなければよかったかなと、少しだけ後悔した。
ポツリポツリと、微かに雨が降り始めた。
向かい合って立ち止まった私と彼女の横を親子連れが駅へと先を急いで行く。
双子だろうか?
おそろいの服を着て、ツインテールのよく似合う姉妹が父親、母親それぞれの手を繋いで、彼女の後、駅を目指して歩いていく。
「あ…幼女だ……」
この静まった時間に私の呟きが響いた。
「東村君、今、なんて……?」
気がつけば親子連れを目で追っていた。
そんな私の意識を引き戻す彼女の声。
彼女は幾分か厳しい表情で私を見つめていた。
「えっ?」
「今、……今、……なんて呟いたの?」
彼女はもしかして怒っているのだろうか?
何か悪いことをしたのだろうか?
私は困惑しながらも、先ほどの呟きを繰り返した。
「えっと……『あ、幼女だ。』だけど……」
彼女は嘆息した。
「そう……」
見上げた空は、月も隠れるほどの曇り空で、下に広がる街の灯りを雲が反射して、どこか白くぼやけた空だった。
「ごめんなさい。東村君とは付き合う気はないの……」
私は雲と同じ様なぼんやりとした意識の中で彼女の言葉を聞いていた。
「そんな幼女が好きなんて……特殊性癖の人とは到底付き合う事なんて、出来る訳ないじゃない……」
……そうか。現実なんて、そんなものか……。
いや、初めから分かっていたことじゃないか。
彼女も又、結局は三次元の存在であった訳だ。
わたしが普段から住んでいる二次元の世界とは根本からして―――違う。
「もうこれから、私を見かけても声をかけないで。あぁ、私、30分発のホームウェイの席を既に取ってるの。じゃあね。さようなら」
彼女はオーバーアクション気味に腕時計を見ながら、早口でそう告げると、点滅する横断歩道を駆け抜け、小田急線の改札へと向かう人混みの中へと消えていった。
雨はまだ降り止まない。
私は彼女の消えた方をしばらく見やっていたが、横断歩道を渡ると、不意に方向を変えた。
見上げた先には、雨の薄いカーテンの向こうに特徴的なパークタワーが霞んでみた。
弧を描くかのような甲州街道を進む。
程なく交差点の向こう側にオレンジ色の看板を掲げたペンシルビルが見える横断歩道まで来た。
青になるのを待って、私は新宿駅へ向かって歩く大勢の人波に逆らうかのように歩いて行く。
とらのあな新宿店で、愛すべき東方シリーズのアレンジCDを探す為。
ローゼンメイデンのギャグ系の同人誌を探す為。
狭いエレベーターホールの前で、私は上方向のボタンを押したのだった。
うわさ話 〜京王線の終着駅の物語〜
=完=